今回は十八史略より「宋襄之仁(宋襄の仁)」について見ていきます。
「宋襄之仁(宋襄の仁)」は、「韓非子」のはあるけど「十八史略」のが見つからない!と困ってこのブログにたどり着いた方の為に、丁寧に解説していきたいと思います。
ここでは…
・人物関係と国の状況
・「宋襄の仁」の言葉の意味
上記について順番に説明していきます。
十八史略「宋襄之仁(宋襄の仁)」現代語訳・解説
内容(白文・書き下し文・現代語訳・解説)
それでは早速本文の書き下し文、現代語訳、単語の意味などを解説していきます。
人物や国については後でまとめて説明します。
書き下し文(漢字のふりがなは現代仮名遣いで表記)
※青…単語、文法
※赤…指示語など解説
宋子姓。
宋は子姓なり。
宋は子姓である。
※宋…国名
※子姓…宋の国の国姓。中国において国ごとに君主の姓を重視し、その姓を国名の別の呼び方とすることもあった。
商紂庶兄微子啓之所封也。
商紂の庶兄微子啓の封ぜられし所なり。
殷の紂王の腹違いの兄である微子啓が領地として与えられた土地である。
※商…殷(国名)
※紂…紂王
※庶兄…腹違いの兄
※微子啓…人物名
※封ぜられ…「封ぜらる」(領地を与えられること)連用形
※し…過去の助動詞「き」連体形
後世至春秋、有襄公茲父者。
後世春秋に至り、襄公茲父といふ者有り。
のちに春秋時代になり、襄公、諱が茲父という者がいた。
※後世…後の世、後の時代
※春秋…春秋時代のこと
※襄公…人物名(諱は茲父)
欲覇諸侯、与楚戦。
諸侯に覇たらんと欲し、楚と戦ふ。
諸侯の覇者になろうとして、楚と戦った。
※覇…覇者になる
※むと欲す…~しようとする
※楚…国名
公子目夷、請及其未陣撃之。
公子の目夷、其の未だ陣せざるに及びて之を撃たんと請ふ。
王子の目夷は、楚軍がまだ陣形を整えていないうちに楚軍を攻撃しましょうと進言した。
※目夷…人物名
※【再読文字】未(未だ~ず)…まだ~していない
※陣…陣形を整える
※及…状態に至る→【直訳】陣形を整えていない状況に至るので→【意訳】陣形を整えていないうちに
※撃…攻撃する
※請…求める、進言する
公曰、「君子不困人於阨。」
公曰はく、「君子人を阨に困しめず」と。
襄公が言うことには、「君子たる者は人が難儀な状態のところを苦しめるものではない。」と。
※公…襄公のこと
※阨…難儀な状態
※困…苦しめる
遂為楚所敗。
遂に楚の敗る所と為る。
そうして楚軍に敗れた。
※遂…そうして
※楚…楚軍
※所と為る…受身(~される)→【直訳】楚軍に敗れさせられた→【意訳】楚軍に敗れた
世笑以為宋襄之仁。
世笑ひて以つて宋襄の仁と為す。
世間の人は笑ってそれについて宋襄の仁とした。
※世…世間の人々
※以つて…それについて(ここでは襄公がいらぬ情けをかけた為に楚軍に敗北したことを指す)
これだけでは意味がわからなかった方も多いと思います。
(私もその一人でした…)
人物関係と国の状況
続いて本文(書き下し文)と一緒に登場人物や国の状況について詳しく解説をしていきます。
①宋は子姓なり。
「宋は子姓の国である」という一文が必要なのか、正直理解できない方も多いかもしれません。
しかし国姓が重要視されているということをおさえておきましょう。
②商紂の庶兄微子啓の封ぜられし所なり。
続いて宋を治めた「微子啓」という人物についての説明です。
微子啓は商(殷の国のこと)の紂王の異母兄でした。
殷が周の国に滅ぼされ、微子啓は宋の国を任されることになるのです。
史実を知らないとかなり意味不明ですね。
この一文も私には必要なのかわかりません。
③後世春秋に至り、襄公茲父といふ者有り。
いよいよ主人公である「襄公」の登場です。
襄公は宋の国の君主です。
諱を茲父と言いました。
父は斉の君主で桓公。
後に登場する目夷は、襄公の異母兄であり宋の宰相を勤めています。
襄公は自分のことよりも礼儀を重んじる人として評価されていました。
④諸侯に覇たらんと欲し、楚と戦ふ。
この部分はだいぶ端折られているので、
順を追って宋と楚が戦うことになるまでについて説明します。
父の桓公が治める斉の国と襄公が治める宋の国、その周りの小さい国と交流をしていました。
父の桓公が亡くなった時に斉の国が混乱し、その際に襄公は小国を引き連れて次の君主を据えて内乱をおさめたのです。
そのことに調子づいた襄公は斉・他の小国と同盟を組み、
「俺が諸侯の覇者になる!!」と意気込みます。
そんな時に、宋の宰相である目夷は「うちみたいな小さい国には無理だよ、危ないからやめよう」と諫めます。
そんな襄公を面白くないと思っていたのが、楚の成王です。
腹を立てていた成王は会盟に出席せず、部下の子玉という武将を送り込みます。
会盟の場で調子に乗っている襄公に一泡吹かせてやろうと、子玉は襄公を拉致し、周辺の集落を荒らしたのです。
楚に目をつけられたんですね…
目夷の進言を素直に聞き入れれば良かったのに。
その後、解放された襄公は「この雪辱を晴らすぞ!!」と楚と戦うことになったというわけです。
どこが「自分のことより礼儀を重んじる人」なんでしょうか…?
だいぶイケイケな感じがしますが。
それを諫めてくれたのが、目夷なんですけどね。
⑤公子の目夷、其の未だ陣せざるに及びて之を撃たんと請ふ。
襄公が決戦の地として選んだのが、泓水のほとりでした。
大国である楚の軍隊の規模は圧倒的に大きく、宋に勝ち目はありませんでした。
しかし楚軍が河を渡る様子を見て、切れ者の宰相である目夷が「河を渡って陣形が整う前に攻めましょう!」と進言したのです。
⑥公曰はく、「君子人を阨に困しめず」と。
襄公は目夷の進言を退け、何を言うかと思えば「君子は人の弱みにつけこむような真似はしないよ」と。
目夷は「私たちの君主は戦い方を知らない…」と呆れ、嘆くのでした。
普段が仮に優れた人格者だとしても、戦場でもその行動をとるのは違うでしょう…
目夷も同じことを思ったんでしょうね。
⑦遂に楚の敗る所と為る。
その結果、やはり宋は楚に敗れてしまいました。
⑧世笑ひて以つて宋襄の仁と為す。
世間の人はそんな襄公を笑ったのでした。
「笑う」ってどういうことですか?
何が面白かったのでしょうか?
それについては次の項目で、
「宋襄の仁」の意味の説明とともに解説します。
「宋襄の仁」の言葉の意味
それではなぜ世間の人が笑ったのか、
そして「宋襄の仁」という言葉の意味について解説をしましょう。
「笑う」とはどんな笑い方だと思いますか?
面白くて大爆笑というわけではないですよね。
そうですね、ここでは嘲笑ですね。
嘲笑とは見下して笑ったり、馬鹿にして笑うことを言います。
戦う相手に礼を尽くしたことで、やられてしまったことを愚かなことだと言っているのですね。
・無用な情け
・不必要な情けをかけたことで、ひどい目に遭うことの例え
まとめ・感想
いかがでしたでしょうか?
人物関係や歴史的な事実から国の状況をおさえていないと、理解するのが難しい内容でしたね。
主題に関係のない人物や国もたくさん出てきて、ずいぶんと混乱させられました。
礼儀を尽くす人として知られていた襄公。
しかし、戦いの場でまで平常時と同様の礼を尽くそうとしたことで、自軍を敗北させてしまいます。
人々はこのことを「宋襄の仁」と呼び、無用な情けは自分を苦しめることになると言いました。
今回のお話を解説するにあたって、中国の歴史についても勉強しました。
知ることでまた内容の理解が深まるのを感じました。
皆さんにも興味を持っていただけたら嬉しいです。
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