今回は孟子の「不忍人之心(人に忍びざるの心)」
の現代語訳と解説をしていきます。
書き下し文にはふりがなもつけてあります。
漢文特有の見慣れない漢字や
「これ、どこまでが1つの単語?」と思うような言葉がありますが、
読み方が分かると、意味も理解しやすくなるので参考にしてください。
孟子「不忍人之心(人に忍びざるの心)」現代語訳・解説
それでは早速本文を見てみましょう。
単語は少し難しいかもしれませんが、
大切な部分は繰り返しの表現になっていて、内容は意外とシンプルです。
また書き下し文を作る上での返り点は、
上・下点と一・二・三・四点の部分に注意をすれば
あとはそれほど難しくはないのではないでしょうか?
内容(白文・書き下し文・現代語訳・解説)
では続いて書き下し文とその現代語訳、
そして解説をしていきますね。
白文
書き下し文(ふりがなは現代仮名遣いで表記)
※青…単語、文法
※赤…指示語の解説
孟子曰、人皆有不忍人之心。
孟子曰はく、「人皆人に忍びざるの心あり。
「人間は誰でも皆、人の不幸を黙って見過ごせない心をもっている。
先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。
先王人に忍びざるの心有りて、斯に人に忍びざるの政有り。
その結果 人民の不幸を黙って見ていられない政治を行ったのである。
※先王…古代の聖王
※斯に…その結果
※不忍人之政…人民に恵み深く、思いやりのある政治のこと
以不忍人之心、行不忍人之政、治天下、可運之掌上。
人に忍びざるの心を以つて、人に忍びざるの政を行はば、
天下を治むること、之を掌上に運らすべし。
掌の上で物を転がすように、極めてたやすいことである。※掌上ニ運ラス…掌の上で物を転がす→思いのままであること
所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕惻隠之心。
人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、
今人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、
皆怵惕惻隠の心有り。
もし今ある人が 急に子どもが今にも井戸に落ちようとしているのを見たならば、
皆 ドキッとして痛切に悲しむ気持ちが起こるだろう。
※所以~者ハ…~のわけは
※今~バ…順接仮定条件(もし今~ならば)
※乍…急に
※孺子…子ども
※将ニ~ス…今にも~しそうだ
※入…入る(ここでは「落ちる」と訳)
非所以内交於孺子之父母也。
交はりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。
それは(子どもを助けたことをきっかけに)その父母と親しくなるためではない。
※内交…交際、付き合いを求める(ここでは「親しくなる」と訳)
非所以要誉於郷党朋友也。
誉れを郷党朋友に要むる所以に非ざるなり。
また(子どもを助けたという)名誉を村里の人々や友人に求める気持ちのためでもない。
※誉…名誉
※郷党…郷土の人々、仲間
※朋友…友人
非悪其声而然也。
其の声を悪みて然するに非ざるなり。
子どもを助けなかったという悪評を嫌がってそのようにしたのでもない。
※其ノ声…子どもを助けなかったという評判
※然する…井戸に落ちそうになっている幼児を助けることを指す
由是観之、無惻隠之心、非人也。
是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。
以上の点から考えてみると、痛切に悲しむ心のない者は、人間ではない。
※由是観之…このことからこれを見ると(井戸に落ちそうになった子どもをとっさに助けるという出来事から人の心を考えてみると)
無羞悪之心、非人也。
羞悪の心無きは、人に非ざるなり。
自分や他人の不正を恥じ憎む心がない者は、人間ではない。
※羞悪之心…自分や他人の不正を恥じて憎む心
無辞譲之心、非人也。
辞譲の心無きは、人に非ざるなり。
人に譲る心がない者は、人間ではない。
※辞譲之心…辞退し人に譲る心
無是非之心、非人也。
是非の心無きは、人に非ざるなり。
善を善とし悪を悪とする心がない者は、人間ではない。
※是非之心…善を善とし悪を悪とする心
惻隠之心、仁之端也。
惻隠の心は、仁の端なり。
痛切に悲しむ心は、仁の始まりである。
羞悪之心、義之端也。
羞悪の心は、義の端なり。
辞譲之心、礼之端也。
辞譲の心は、礼の端なり。
人に譲る心は、例の始まりである。
是非之心、智之端也。
是非の心は、智の端なり。
人之有是四端也、猶其有四体也。
人の是の四端有るや、猶ほ其の四体とあるがごときなり」と。
ちょうど人間が両手両足を持っているのと同じである。※是…惻隠之心・羞悪之心・辞譲之心・是非之心のこと
※其…私たち人間を指す
※四体…両手両足のこと
人に忍びざるの心とは?
結局「人に忍びざるの心」とは
一体どういうことでしょうか?
「人の不幸を黙って見過ごせない心」と訳しましたが、「人が苦しんでいるのを放っておけない心」ということです。
「人に忍びざるの心有り」の証拠として、「今もし子供が井戸に落ちそうになっていたら、慌てて助けようとするでしょう」と言っています。
つまり…
幼児を助けたのは見返りを求めたり、助けないことで悪く言われるのが嫌だとかそんなことを考えることもなく、「子どもが大変だ!」ととっさに助けるでしょう。それが「怵惕惻隠の心」によるものだということです。
これらのものがない人は人間ではないと言っていますね…
つまり作者は
「人間はみなこのような心を持っている」と言いたいのです。
四端を四徳に育てる
最後の部分は一体何を言ってるのでしょうか?
惻隠・羞悪・辞譲・是非の四つの端は、人間に両手両足があるのと同様に備わっていると言っています。
最初から四つの徳を持っているのではなく、徳のもととなる四端を持っていて、それを経験や道徳的訓練によって育てることで徳となると言っています。
ちなみに四徳とは…
仁…理想とする人間の姿。自分を愛し、人を思いやる慈悲の心で接すること。
義…人助けの心を持ち、人として正しい行いを貫くこと。
礼…親や年上の人などに敬意を持って接すること。
智…様々な経験を積むことで、正しく善悪の判断ができるようになること。
これらのことを「徳」と言い、「徳」は中国における重要な思想で、道徳的に卓越した特質を指します。
「四端があるから良い人です」と言うのではなく、
経験を積んで成長させていくことが大切ということですね。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は孟子の「不忍人之心」について解説しました。
人は誰でも皆、人の不幸を見過ごせない心を持っている。
古代の聖王はその心を大切にし、民衆の為に政治を行ったことで簡単に国を治めることができた。
その心は聖王だけでなく、誰もが持っているものである。
惻隠の心が仁となり、羞悪の心が義となり、辞譲の心が礼となり、是非の心が智となる。
ということを言っています。
人は生まれながらにして善であるという話ではあります。
しかし、努力を怠らずに経験を積み、自分を成長させていくことが大切。
四端を四徳へと育てていく、ということも覚えておいてください。
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